非人情の哲学―夏目漱石『草枕』

  夏目漱石の『草枕』とか一生読まないで、死ぬだろうなと思ったが、なんとなく読めてしまった。

 旅をしている絵描きの話です―

 と言って、この小説を説明していることになるのか。

 絵描きが旅行中に延々と考えたり、人とあって話したりしているだけで、ストーリーはほどんどない。

 

 これも青空文庫で無料で読めるが、言葉の註釈が欲しかったので、新潮文庫を買った。

 

 作品のなかで、非人情の芸術論というべきものが展開されているのだが、これを読んで、なぜか「これは、やくしまるえつこじゃん」と思った。

 以下、長いが引用。

 

苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通《しとお》して、飽々《あきあき》した。飽《あ》き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞《こぶ》するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界《じんかい》を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌《しいか》の純粋なるものもこの境《きょう》を解脱《げだつ》する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世《うきよ》の勧工場《かんこうば》にあるものだけで用を弁《べん》じている。いくら詩的になっても地面の上を馳《か》けてあるいて、銭《ぜに》の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀《ひばり》を聞いて嘆息したのも無理はない。
 うれしい事に東洋の詩歌《しいか》はそこを解脱《げだつ》したのがある。採菊《きくをとる》東籬下《とうりのもと》、悠然《ゆうぜんとして》見南山《なんざんをみる》。ただそれぎりの裏《うち》に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗《のぞ》いてる訳でもなければ、南山《なんざん》に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的《しゅっせけんてき》に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独《ひとり》坐幽篁裏《ゆうこうのうちにざし》、弾琴《きんをだんじて》復長嘯《またちょうしょうす》、深林《しんりん》人不知《ひとしらず》、明月来《めいげつきたりて》相照《あいてらす》。ただ二十字のうちに優《ゆう》に別乾坤《べつけんこん》を建立《こんりゅう》している。この乾坤の功徳《くどく》は「不如帰《ほととぎす》」や「金色夜叉《こんじきやしゃ》」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後《のち》に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気《のんき》な扁舟《へんしゅう》を泛《うか》べてこの桃源《とうげん》に溯《さかのぼ》るものはないようだ。余は固《もと》より詩人を職業にしておらんから、王維《おうい》や淵明《えんめい》の境界《きょうがい》を今の世に布教《ふきょう》して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人《ひとり》絵の具箱と三脚几《さんきゃくき》を担《かつ》いで春の山路《やまじ》をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間《ま》でも非人情《ひにんじょう》の天地に逍遥《しょうよう》したいからの願《ねがい》。一つの酔興《すいきょう》だ。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html

 

 「どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌《しいか》の純粋なるものもこの境《きょう》を解脱《げだつ》する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世《うきよ》の勧工場《かんこうば》にあるものだけで用を弁《べん》じている」。

 なんかやくしまるえつこの音楽って、うまく表現できないが、いい感じに無機質だと思うのです。

 「無機質」という言葉が適切かわからないが、うえで漱石が語っている、「人情」というか、なんというか、いい感じの「引き算」があると思う。

 引き算によって、「優《ゆう》に別乾坤《べつけんこん》を建立《こんりゅう》」していると思った。

 それがここで言われている「非人情」に通じるところがあると思った。

 

 「余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞《こぶ》するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界《じんかい》を離れた心持ちになれる詩である。」

 「超然と出世間的《しゅっせけんてき》に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。」

 

 ここらへんも漱石と同感。

 

 あと、この小説、全体的に日本語が素晴らしい。

 自分なら、「いま、感じているこれ、どうやって表現するんだろう」みたいなものが綺麗な日本語になっていて、感動する箇所がある。

 具体的には…

 雨の中を主人公がいく描写で…

 

茫々《ぼうぼう》たる薄墨色《うすずみいろ》の世界を、幾条《いくじょう》の銀箭《ぎんせん》が斜《なな》めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれ

 

 これはすごいと思った。言葉が見事に絵になっている。

 

 あと、この小説で、すごいと思ったのは、大したストーリーもないのに最後にちゃんとカタルシスがあるというところ。

 汽車の駅のシーンだが。

 別に、「惡」が倒されたわけではないが、カタルシスがある。

 これは、宮﨑駿の『もののけ姫』に通じるものを感じた。

 宮﨑駿も「夏目漱石」や『草枕』が好きらしい。

 

 最後の文明批評が印象に残っている。

 

いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟《ごう》と通る。情《なさ》け容赦《ようしゃ》はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]《じょうき》の恩沢《おんたく》に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑《けいべつ》したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前《ひとりまえ》何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵《てっさく》を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇《おど》かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅《ほしいまま》にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢《いきおい》である。憐《あわれ》むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛《か》みついて咆哮《ほうこう》している。文明は個人に自由を与えて虎《とら》のごとく猛《たけ》からしめたる後、これを檻穽《かんせい》の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨《にら》めて、寝転《ねころ》んでいると同様な平和である。檻《おり》の鉄棒が一本でも抜けたら――世はめちゃめちゃになる。第二の仏蘭西革命《フランスかくめい》はこの時に起るのであろう。個人の革命は今すでに日夜《にちや》に起りつつある。北欧の偉人イブセンはこの革命の起るべき状態についてつぶさにその例証を吾人《ごじん》に与えた。余は汽車の猛烈に、見界《みさかい》なく、すべての人を貨物同様に心得て走る様《さま》を見るたびに、客車のうちに閉《と》じ籠《こ》められたる個人と、個人の個性に寸毫《すんごう》の注意をだに払わざるこの鉄車《てっしゃ》とを比較して、――あぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻を衝《つ》かれるくらい充満している。おさき真闇《まっくら》に盲動《もうどう》する汽車はあぶない標本の一つである。

 

 ピアニストのグレン・グールドも『草枕』が好きだったらしい。

 『草枕』で展開されている芸術論は、自分にとっても、理想かもしれない。

 「非人情」かどうかわからないが、塵界《じんかい》を解脱した別天地に逍遥《しょうよう》したいとは思う。

 

草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)