最近見た映画(2016.4)
『パーフェクト・ワールド』(原題: A Perfect World)(1993年・アメリカ)クリント・イーストウッド監督
脚本が良く出来ていた。
主人公が知能指数高い設定なのだが、それが具体的に表現されてるシーンがあった。
(バーのくだり)
『スター・ウォーズ帝国の逆襲』(原題: STAR WARS EPISODE V:THE EMPIRE STRIKES BACK)(1980 アメリカ) アーヴィン・カーシュナー監督
見返すと意外と冗長だなと。
ルーク・スカイウォーカーがヨーダのもので修行中、洞窟のなかで幻想のベーダーと戦って、そのベーダーは…というくだりは、まあ、深層心理的にそうだよなと納得感。
『野いちご』(原題: Smultronstället)(1957年、スウェーデン)イングマール・ベルイマン
悪夢の背筋がゾッとするような感覚がリアル。
カメラワーク独特。
でも、よくわかんかった。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(原題: The Wolf of Wall Street)(2013年のアメリカ)マーティン・スコセッシ
同じスコセッシの『グッド・フェローズ』とほとんど同じだと思った。
モラルのかけた人間の成り上がり&没落。
テンポが『帝国の逆襲』よりはいい気がする。
『グッド・フェローズ』もヤクの描写があったけど、スコセッシは、ドラックに関して何かこだわりがあるのだろうか…。
ヤクで完全にイッたディカプリオの演技すごい。
あと、ディカプリオの奥さんナオミの日本語吹き替え声優が白石涼子だった。
『パーフェクト・ワールド』のケヴィン・コスナーで、『アンタッチャブル』思い出したけど、ブライアン・デ・パルマは偉大だな…。
勧善懲悪でないのにものすごいカタルシスのある『もののけ姫』を作った宮﨑駿も偉大。
自分で生み出す。
映像って、話は、借り物で作れる。
今の日本の実写映画やアニメは、漫画からの借り物とか、借り物、借り物で、結局自分で、なにも生み出せなくなってしまったんじゃないか。
なんか小説を原作に何かやるにしても、ゴダールが駄作の小説を改変して、『気狂いピエロ』を作ったとかみたいに、もっとクリエイティビティー=創造性が必要なんじゃないか。
そういう意味では、漫画家とかミュージシャンはすごいと思う。
一概には、言えないけど、自分で生み出さないとしょうがないという面は、映像業界より強いんじゃないか。
曲とか歌詞とか、バンドは自分で考えて、作らないといけないでしょう。
コピーバンドじゃなきゃ、映像業界みたいに「他から原作をもってきて…」というわけにはいかないと思う。
そういう人たちが本当にものを生み出していると思う。
今の映像業界は、本当にものを生み出しているか疑問なところがある。
まあ、自分レベルの人間が言えることではないだろうが…。
私の中の私と私。
どうも自分のなかに、2人いるみたいだ。
AB型は二重人格とか、AB型だから、「二重人格なの?」って、昔からたまに言われてたけど、去年、あるとき、はっきり気づいた。
「2人いるなー」と。
一人は、仏道修行を頑張りたい人なんだ。
この人がなかなか手強い。
だいたい二十歳くらいに目覚めて、現在に至る。
もう一人は、ジャン・リュック=ゴダールとかが好きな人で、映画とか撮りたいと思っている。
この人というか、今、ブログを書いている自分だが、これも二十歳くらいに目覚めて、現在に至る。
で、仏道修行したいほうの自分の力が強すぎて、もう一人の成長を阻害していた面があるのだな。
仏道修行は煩悩をなくす方、世の中の執着を離れる方と、映画とか芸術というのは、世の中を楽しむほうで、ベクトルがまったく逆だから。
芸術家の自分の成長が阻害されて、全然、成長できてなくて、これはいかんなと思っている。
でも、結局、あれなんだよ。
結局、仏道修行するにも、結局、世俗のなかでの基盤がないと修行できない。
肉体がないと坐禅もできないから、肉体を維持しなきゃダメなんだよね。
だから、世俗的に成功して、お金があるほうが、結局、仏道修行にも有利だ。
だから、仏道修行したいほうの自分にお願いしてる。
芸術家の自分が育っても、それ、あなたの助けになるからって。
何よりも、自分が自分の思うとおりにできないって、すごい苦しみじゃないですか。
だから、好きなことやらせてくれと。
なんで、最近、このブログをつけるようになったのかって、仏道修行したい自分に対抗する意味がある。
この文章を書いているのは、「私」じゃなくて、「私」です。
矛盾。
アニメとか映画の世界にくらべたら、現実の世界ってなんてクソなんだろうと思う。
でも、結局、アニメとか映画の世界って、虚構なんだよね。
大学時代、友だちが「映画とか見て感動するよりも、女の子と一回キスするほうが、体験として、圧倒的でしょ」って話をしてて。
それはそうだよねと思う。
だから、この現実の世界でいかにリアルなものを追究していくかというか。
まあ、それができればリア充だけど。
だから、現実とうまく折り合えない人間はもっと「他の現実」と折り合って生きていくんじゃないかと。
それが学問だったり、映画などの芸術だったり。
虚構は、虚構という現実でもある。
「現実はクソ、でもフィクションのは虚構」。
その矛盾を解消するには、自分で何かを生み出すのしかないのかと思ったり。
生み出すこと。それは虚構じゃなくて、リアルでしょう。
とりとめない。
自分の文章を読んでいると、とりとめのなさにびっくりする。
なんだこれは…
「保育園落ちた」ブログと『うさぎドロップ』
この問題は自分も保育園に通っていたので、どうも人事とも思えず、経緯を見ていた。
この一連の件を見ていて思ったのは、「子どもは昼間も女の人が家でちゃんと世話しなさい」みたいな人はやっぱり結構多いのだなと思った。
逆に、経済的に、子どもを預けて働かないと家計が成り立たない。
あるいは、もっと自分の好きな仕事をしたいという人も多いのだと思う。
これで最近、思い出したのが、『うさぎドロップ』という漫画だ。
簡単に言うと、30過ぎの独身男大吉が、突如、祖父の隠し子の凛という少女を預かって、一緒に暮らすという漫画である。
その中で、大吉の母親が子育てを「犠牲」という言い方をして、大吉が、「俺と妹のために母ちゃん犠牲になったのかよ」とショックを受けるシーンがある。
これはフィクションの世界だが、はやり、子どもを育てるというのは、並大抵のことではないというのが、この数コマの会話の描写で伝わってきた。
翻って、大吉は凛を育児するわけだが、凛を育てるときに、「俺はこれを犠牲と思いたくない」みたいに決心する。
そして、男でひとつで育てるわけだから、昼は会社に行くために、凛を保育園を預けるのにいろいろ苦労するという描写がある。
それを読んで、親の助けも借りられない、保育園に入れられないと、「詰み」というか、シングルマザー、シングルファザーの子育てはかなり厳しいと思った。
もう、家に子どもを放置するくらいしかなくなる。
今はそういう非常に寂しい思いをしている子どもたちも多いと思うが…。
しかし、保守の方々とかがいう、「保育園とか人に預けないで、親がちゃんと家で面倒みなさい」という意見もわかるんですよ。
ワーク&ライフバランスがとれて、昼は子どもを保育園にあずけても、夜は家族団欒できるとかならよいけど、仕事が夜遅くまであって、子どもと触れあえないという人もいるわけで。
だから、ケース・バイ・ケースというか結構難しい問題だと思う。
自分の場合は、親が共働きで保育園に通っていた。
で、小学2年生のときだったか、親がやっていた店をたたむときがきて、「お母さんが家にいたほうがいいよね?」と父親だが、母親だがに聞かれて、自分は「うん」と答えた。
それで、自分の母親は専業主婦になった。(そのあとまたパートに出たりするのだが)
だから、自分の家庭を振り返っても、1つの家庭でも、共働きになったり、子どものために専業主婦(夫)になったり、場合によって、そのときの良い答えというのが、変わってくる。
一概に「子どもは預けて外で働くのが正しい」とか「昼間でも家でちゃんと面倒をみるのが正しい」とはいえないんじゃないか。
選択肢は1つじゃなくて、たくさんあったほうがいいというか、いろんな家庭の状況に対応できるように選択肢がたくさんある社会のほうが生きやすいと思う。
失言待ちのツール
今のツイッターは完全に誰かの失言待ちツールみたいになってて、もう始めた当時に思い描いていたことは全く出来なくなっていて。だからといって、やめるのはなあ。とは思っているのだけれど……。と、まあ、久々に、真面目につぶやいてみるのでした。おしまい。
— 花田十輝 (@oitan125) 2014年10月5日
花田十輝さんは、アニメ「ラブライブ!」などの脚本家。祖父は、花田清輝(作家・文芸評論家)。
かなり前のTweetだが印象に残っている。
「失言待ちツール」とは言い得て妙だと思う。
最近、思うのは、インターネットは満員電車に似ている。
500m先の人の挙動は大して気にならないが、満員電車でぎゅうぎゅう詰めになれば、隣の人のささいな動きでも気になって仕方がない。
問題は、自分が満員電車に乗っていると気づいたとき降りられるか…?
それが難しい。
苦しいと言っても、人間、刺激を与えてくれるものに執着してしまうから。